この日の青空は永遠
近所のスーパーから出ようとすると、向こうから数字を模った風船を持っている人が見えた。1と7。17歳か71歳のだれかを祝ったのだろうか。それとも祝ってもらった側が記念に持ち帰っているのだろうか。
スーパーから出ると、その人物が近くに見えた。女子高生だった。17か。
2人組の女子高生。はしゃいでいる。数字の風船は結構大きい。大きな1と7を1人で抱きしめている。隣の友だちが待とうか?と言ってるのに、持ち主はひとりで抱え続けていた。
あの子がお誕生日でもらったのかなと、ぼんやり眺め、聞くつもりもなく聞こえてくる2人の会話が風に乗って耳に入ってくるま
もらった側でなく、どうも贈る側っぽい。
なんでこんなところで大きな風船持ってるの?
お誕生会の会場で膨らませればいいじゃない。
そこでひらめく私の灰色の脳細胞。
このスーパーには、無料の自転車用空気入れ機がある!!
2階には100円ショップがあるし、横着して買ってすぐ膨らませたら、運びにくくて仕方なくなったパターンかしら。ほほえま案件。
賢いんだかそうでもないんだか、私にはわからない。
でも、この日の青空や笑い合った日々を彼女たちは忘れないんだろうなあと思ったら、一気にまぶしく尊いもののように見えた。
目が潰れちゃうっ!!
尊いと思ったことを残しておきたくて、久しぶりにはてなブログを開いたのでありました…。
【映画鑑賞記/鬼畜】親を棄てる
神保町シアターで「鬼畜」という映画を観た。松本清張原作で実際にあった事件を下敷きにしているそうだ。1978年制作。
緒形拳が演じる男の愛人が3人の子供を連れて彼が営む印刷所兼住居に乗り込むところから物語が始まる。男には妻がいて子供はいない。妻は岩下志麻が演じている。美しい…。
男、妻、愛人の修羅場から、愛人は子供を置いて姿を消す。妻は愛人の子供なんて愛せない。男もいつしか疎んじる。志麻姐さんの女優魂凄まじく、虐待シーンを観るのはとてもつらい。
末の男の子を未必の故意で死なせ、真ん中の女の子が住所と父親の名前が言えないことを確認して東京タワーに置き去り。
長男は6歳。「知恵が遅れている」と男が妻に説明するシーンがあり平均的な6歳を知らないけど、余計なことを言わない子。妻は「なんでもお見通しの顔」だと憎しみを募らせる。
長男は一度、家出騒動を起こす。キセル乗車で生みの母と暮らした家に向かうので、男が言うような知恵はなくても、生きる力は持っているのかもしれない。ここで、長男が家の住所と父親の名前が言えることが判明する。娘に使った「置き去り」は出来ない。保護した警察官を田中邦衛が演じていた。若々しく朴訥とした雰囲気になんだかホッとしてしまった。
毒殺を試みるも失敗。男は妻に急かされて、遺体が浮かばないという海に長男を捨てにいく旅へ。
40年以上前の映画なので、新幹線が丸顔で感動した。印刷所のある川越の風景も良い。たった40年前のように思う(自分が生まれる2年前かと思うと、まだ身近に感じるいうだけで、若者からすれば十分昔か 笑)けど、全く風景が変わってしまっている。昭和が激動の歴史だったと物語っている。映画の内容とは全く関係ない感想だけど。
米原で新幹線を降り、福井の東尋坊(風景が…以下略)に寄り石川の能登半島にたどり着く。なかなか殺せない。道中の旅館で、酔った男が自分の人生を長男に聞かせる。男も長男同様、親や親戚たちに捨てられてきていた。負の連鎖が悲しい。
とうとう長男を海に落とし帰路につく男。しかし、長男は地元の人たちに助けられて、命を落とさずに済んだ。
ここからが、解釈の違いで物語が全く変わると考えさせられた。
長男は警察に身元を言わなかった。住所も父親の名前も言わない。言えるはずなのに。
警察は「誰かを庇っているんだ」と見る。そうなんだろうか? 観終わった後、この映画のウィキペディアを読んだらオチもバッチリ載っているのだけど、「庇っている」という解釈でいいらしい。
でも私は、この子は親を棄てようとしているんじゃないかと期待してしまった。
長男の持ち物から身元が割れてしまい、男は警察に連行される。長男は父親の姿を見ても黙秘を続ける。周りの大人たちはもう庇う必要はないのだと説得するし、男も観念している。
長男が涙を流してようやく発した言葉に、男は猛省し泣き崩れ許しを乞う。
40年以上前は「情」というものがあったのだろう。だから長男は庇っているという解釈でいいのだ。どのような状況でも父子の絆は絶たれないと誰もが信じられていた、子供の健気さに感動する、そんな時代。
私は2019年を生きている。この映画の夫婦は確かに「鬼畜」なんだけど、この夫婦は殺そうと思って殺しているだけ、まだマシなんじゃないか。夫の愛人の子を我が子のように育てられたら、それはまた別の物語が作れる。
今はその先に死があると想像できず、子供に暴力をふるい続ける親の事件が多すぎる。実の子連れ子問わず。この時代に松本清張もびっくりだろうね。
「この子は親を棄てようとしている」という視線で観ていたらなんとも愉快な気持ちになった。
「お前なんか親じゃない」。あの言葉にはそんな決意が込められていたのではないか。目の前で泣き崩れる父親に絶縁を言い渡し、自分はこのまま施設へ行ったほうが幸せだとわかっている。この子は人生を選んでいる。生きる力はあるのだ。一度落としかけた命。運の強い子だから、きっと幸せになっているに違いない。
最近は、こういった親を「毒親」と呼び、距離を置くかつては子供だった大人が増えているようだ。私はこの風潮に賛成する。毒になる親なら棄てていい。「子は親に尽くすもの」という価値観にとらわれて不幸でいる必要はない。自分が幸せならいいじゃないか。あと、距離を置いてみたら許せることもある。
全ての子供たちが幸せでありますように。
40年の歳月で、この国の家族観や風景が大きく変わったと教えてくれる、いろんな意味で面白い映画だった。
そうそう、簡単に実子を棄てていった愛人を演じたのは小川真由美。「ポイズン・ママ」と実の娘から呼ばれてしまった女優が演じていることもとても興味深い。
一番の「鬼畜」は誰でしょう。
(2019年1月23日鑑賞@神保町シアター)
流行り言葉の進化
最近、15歳年下の女の子と飲みに行ったり落語を聴きに行ったりしている。
鈴本演芸場に行く前に、アメ横で昼飲みできるところを探していた。ある洋品店前で、褐色の肌の外国人が彼女に近付いてなにかを囁いた。
無視して私たちは通り過ぎたが、少し離れたところで「グッドボーイって言われた…」と、わななく彼女。166センチ、モード系ファッション、男性に見える…か???
わっはっは。ナンパかねと返すプチ腐ババアな私。「いやいや、にいちゃん洋服見てけよっていう客引きだと思…」。腐ってない若者。
あーでもない、こーでもないと、さらにテクテク歩いたところで、若者が「くさあ!」と叫んだ。
びっくりして、なにが臭いの? 飲食店はたくさんあるけど、特に臭いは…あ。
「草」か…。
ネット創成期、「笑」が「藁」になって「w」になった。ネットにおける便所の落書きなんて見ない人たちにまで浸透していった。いまは「草生える」とか「大草原」とか使っているのを見る。「w」が芝生のように見えるかららしい。
音で聴く「草あ!」が妙にツボで、とあるネットスラングが市民権を得て進化していく過程を見られて楽しいなあと思った。
実は、ある時から自分では使わないようにしている「w」。他人を馬鹿にしたり自分を卑下したりするときに使うものという印象があって、その使い方をしてない「w」にモヤモヤしてしまったから。
この「草あ!」も「ふざけんな、この野郎!」の意味で使われているから、私の使い方は間違ってないと妙な確信を得たり 笑。
しかし、藁が草になるって若返ってるよね。そのうち花が咲くんじゃないかと期待している。
むかっ腹立って「花あ!」。なんだか平和そうじゃないか。
ここまで書いてふと思い出した。NHKの「チコちゃんに叱られる!」で、「鼻」は「何故『はな』」なのかという疑問に「鼻=花」「目=芽」「歯=葉」と、昔の人は人間の顔と植物を重ねていたという解説をしていた。
「萌え」も「芽生える」も植物に使う言葉。日本人のボキャブラリーセンスは、今も昔も変わらないのかもしれない。
お疲れ様でした、おやすみなさい
「見たこと、思ったことを記録する必要がある」と思った出来事について書きたい。
7月2日に桂歌丸さんが亡くなった。子どものころから笑点が好きだった。
その日のTwitterのタイムラインで、歌丸さんについて書かれた、ある全国紙のネットニュースが流れていた。
有料記事で、出だしだけ読むと私も知っている出来事について書かれているようだった。もう記憶もあやふやになっているし、詳細を読みたかったので、有料登録することにした。しかし、その記事はとてもあやふやな記載が多く、期待はずれだった。
歌丸さんがあるときの浅草演芸ホールで、酔っ払いに注意したときの出来事なんだけど、微妙に私の記憶と違う。
私自身も記憶が曖昧だから、酔っ払いがいるということは、新春興行だったかもしれないし、あとは、6代目圓楽襲名披露に行ったことがあるので、歌丸さんを観たのは、このどちらかだろうと思っていた。
いつ、どのような機会でその寄席を見たかさえ書かれていない。新聞記事としてはおかしな点が多かった。その辺を明らかにしないと「妄想で書いたんじゃね?」とツッコミを入れられてもおかしくないものをどうしてアップしたのか不思議に思った。
記事には歌丸さんが「やめてください」と叫んだとあった。その記憶が私にはない。歌丸さんの出番前から騒がしい人がいて、ヨネスケさんに叱られていたことは覚えている。
歌丸さんの番になって、みんな期待の目で観ている。集中しているところで、空気が変わった。歌丸さんが誰かになにか言ったことはわかったけれど、叫んだとは思わなかった。
気持ち悪くなったので、昔、こまめに更新していたSNSに残してるんじゃないかと探してみた。そしたらあった。ログインIDもパスワードも覚えていて良かった。
それは、2010年4月の6代目圓楽さんの襲名披露の出来事だった。
「あんた、およしなさいよ」と歌丸さんがたしなめて、落語が中断したと書いてあった。このたおやかな言葉に、私はとても感動したのだ。遊郭で育ってきて、女性が化粧する形態模写をする芸も子どものころに観たことがあって、とても歌丸さんらしい言葉だと感じた。
だから、あの記事には違和感しかない。
その中断後、30年ぶりだと踊りだしたという記憶は同じだったので、おそらく別の日にあった似たような出来事、ということではないだろう。
私もそんなに詳しい落語ファンではない。きっともっと詳細に記録と記憶しているファンもいるのではないか。そういう人たちから見たら、あの記事も私のこの中途半端な記憶も噴飯もので、恥ずかしいものかもしれない。
こういうことがあって、冒頭の決意に至った。全国紙の記事は永遠に残るだろう。それが悔しくて、改めて私の記憶を残しておきたくなった。
歌丸さん、お疲れ様でした。おやすみなさい。
【映画鑑賞記】ゲッペルスと私
むかし、「あの日、僕らの命はトイレットペーパーより軽かった」というドラマを観て、違和感を感じたのが最初だと思う。
ドラマの中で、体制側の中にいる少年を哀れな存在のように見せていたこと。大人から植え付けられた価値を疑いもなく信じている姿を、哀れんでいるように私は見えた。制作者の意図はわからないので、個人的な感想でしかないのでご容赦いただきたい。
私にはそれが無責任なことのように感じた。内容が変わっただけで、大人から植え付けられた価値を疑いもなく受け入れてはいないと言い切れる人間はどれだけいるだろう。少なくとも私は言い切れない。
それからだと思う。戦争をテーマにした創作物を観るにつけ、国民は被害者であるという描写が目立つようになったように感じる。
このドラマは10年前の2008年に放映された。その辺りから戦争体験談を語れる人たちが、当時は子供だった人たちに変わってきたのだと思う。その人たちは、こう言うしかない。「私たちは被害者だ」。
知らずに戦争に加担していることに、当時は気づくことができない。大人の言うことに、権力に抗うすべを知らないのだから仕方ないことだろう。抗うすべを知らないという点で、私たちと対になっているのはあの子供だ。あのとき戦争が終わったから、価値観が変わったことで、彼らは被害者となりえたが、私たちは今後、加害者になる可能性がある。
ゲッペルスの秘書だったポムゼムさんは、何度も若者に警鐘を鳴らす。「いまの若い人は当時を生きていたらこんなことをしないと言うけれど、無理よ」
10年前に抱いた違和感が、肯定される言葉だった。
いまを生きる私たちは、当時の日本人が滑稽に見えるかもしれない。でもこの姿は、私たちの合わせ鏡だ。空気を読んで、権威に媚び、自分の生活を守る。それのなにがいけないことか。自分の思い通りに生きている人間がどれだけいるのだろう。凡人以下の私には、なにが正義か語れる力などない。価値観が変われば正義も変わる。
撮影当時103歳だったポムゼムさんは、どちらかというと体制側であり加害者側だ。本人はそれを認める気はなく、語る言葉から無責任にも、無知すぎるようにも感じる。ホロコーストで命を落としたユダヤ人の友人のことをどう思っているのだろう。その事実だけは、どう言い逃れもできず苦しんできたようにも見えた。
いまを生きる私たちは、70年以上前に子供だった「被害者」から見たら、加害者側になる可能性がある。自分で考え行動する力を持たなければ、まずい状態にいる。
……
とは言ってもなー、自分が非力なこともわかってるのよ。これを読むあなたも。この駄文が少しでも考える契機になれば、幸せです。
(2018年7月4日鑑賞@岩波ホール)
そうそう、「帰ってきたヒトラー」という映画も観たことがあるんですけど、私はこの映画のラストが好きです。ヒトラーが帰ってきたとしても、戦後の教育を受けてきた人々の良識を信じたいというようなセリフがあって、ドイツっぽくていいですよね。さて、日本は?
どうにもこうにも波がある
もう少し自分の見たこと、思ったことを記録する必要があると感じることがありまして、ゆるりと復活します。
と、宣言しても、「こんな駄文、ネットで発信する必要があるのか?」「承認欲求乙」みたいな気持ちも若干なくはなく、その狭間でもがきながらも、やっぱり自分の思うことを……と、堂々巡りさせる自分も目に見えるのですが、その時はそのとき。ゆるりとお付き合いいただければ幸いです。
愛、愛、愛、愛、愛、かましたいの♪
Negiccoちゃんたちが可愛くてたまらんnawocongです。
日が変わってしまったけど、きょうは新曲「愛、かましたいの」のフラゲ日でした。
Negicco「愛、かましたいの」MV 作詞・作曲 堂島孝平 編曲 石崎光(cafelon) (2016/12/20 release)
渋谷のタワレコで初回限定盤Bと通常盤を購入すると、21日のリリイベに参加できる入場券配布していると知りまして、その日がたまたま休みだと気付いた私は、にやりんぐ。
MVが可愛くて、YouTubeでヘビロテしています。おばちゃん、おめさんがたから元気もろてるてば!
今年も良い年でした!