おかあさん
母が亡くなって、もうすぐ1年が経とうとしています。
今週末が一周忌です。
母はとても家が好きだったようで、病院で息を引き取り自宅に帰り、セレモニーホールに移動するまで、3日は自宅で眠っていました。
もちろん、遺体は腐敗するもの。セレモニーホールに移動する前日に死に装束に着替えさせてもらったのですが、本来は身体も洗ってもらうものなのに、もう触ったら崩れるぐらいになっていたらしいので、納棺師の方はその辺はなにもしませんでした。
家に少しでも長くいたいがために、洗われなくてもいいというのは母らしいなと思いました(魂の思いがこの世に反映されるものならば)。
私自身、家にいる母に安心していました。
冷たくなった母の手を握ったりしました。
そういえば、きょうも新聞の読者コラムで「認知症になった母が爪にマニキュアを塗って乾かすような仕草で手遊びをする」という表現を読みながら、ああ、死ぬ前にマニキュアを塗ってあげればよかったなと、あの白い手を思い出していました。
セレモニーホールに移動しても、まだ母と一緒にいる気がして穏やかに受付にいたら、なにか勘違いしたいとこたちの緊張感のなさにムカついて「お前らの親が亡くなったときは神妙な面持ちで受付をやってやる」と正しい復讐心を燃やしていました。
心の均衡が崩れたのは、母の肉体を納めた棺が火葬炉に入れられていくところでした。
かあさんが いなくなってしまう
なんでしょう。経験したことのない喪失感が私を襲いました。
母は精神を病み、母ではなかったはずなのに、 くやしいくらい母親で私の中に君臨していたのです。
その後、母の「家にいたい」という願いが悪あがきをしたのか(魂が現世に影響をあたえられるのならば)、四十九日の納骨で墓が開かず結局一周忌まで遺骨を自宅に置くことになりました。
家に帰れば、母の遺骨がありました。母がいます。
時間が経って一周忌の日程が決まり、またあの時の喪失感が私の心をよぎります。
火葬場に佇むあの時よりは弱いかもしれませんが、家に当たり前のようにいた母が、今度こそいなくなるのです。
人間というのは、不思議なものでイヤな思い出はどこかへ消えて、温かな記憶だけが残るようになっているみたいです。