【映画鑑賞記/鬼畜】親を棄てる
神保町シアターで「鬼畜」という映画を観た。松本清張原作で実際にあった事件を下敷きにしているそうだ。1978年制作。
緒形拳が演じる男の愛人が3人の子供を連れて彼が営む印刷所兼住居に乗り込むところから物語が始まる。男には妻がいて子供はいない。妻は岩下志麻が演じている。美しい…。
男、妻、愛人の修羅場から、愛人は子供を置いて姿を消す。妻は愛人の子供なんて愛せない。男もいつしか疎んじる。志麻姐さんの女優魂凄まじく、虐待シーンを観るのはとてもつらい。
末の男の子を未必の故意で死なせ、真ん中の女の子が住所と父親の名前が言えないことを確認して東京タワーに置き去り。
長男は6歳。「知恵が遅れている」と男が妻に説明するシーンがあり平均的な6歳を知らないけど、余計なことを言わない子。妻は「なんでもお見通しの顔」だと憎しみを募らせる。
長男は一度、家出騒動を起こす。キセル乗車で生みの母と暮らした家に向かうので、男が言うような知恵はなくても、生きる力は持っているのかもしれない。ここで、長男が家の住所と父親の名前が言えることが判明する。娘に使った「置き去り」は出来ない。保護した警察官を田中邦衛が演じていた。若々しく朴訥とした雰囲気になんだかホッとしてしまった。
毒殺を試みるも失敗。男は妻に急かされて、遺体が浮かばないという海に長男を捨てにいく旅へ。
40年以上前の映画なので、新幹線が丸顔で感動した。印刷所のある川越の風景も良い。たった40年前のように思う(自分が生まれる2年前かと思うと、まだ身近に感じるいうだけで、若者からすれば十分昔か 笑)けど、全く風景が変わってしまっている。昭和が激動の歴史だったと物語っている。映画の内容とは全く関係ない感想だけど。
米原で新幹線を降り、福井の東尋坊(風景が…以下略)に寄り石川の能登半島にたどり着く。なかなか殺せない。道中の旅館で、酔った男が自分の人生を長男に聞かせる。男も長男同様、親や親戚たちに捨てられてきていた。負の連鎖が悲しい。
とうとう長男を海に落とし帰路につく男。しかし、長男は地元の人たちに助けられて、命を落とさずに済んだ。
ここからが、解釈の違いで物語が全く変わると考えさせられた。
長男は警察に身元を言わなかった。住所も父親の名前も言わない。言えるはずなのに。
警察は「誰かを庇っているんだ」と見る。そうなんだろうか? 観終わった後、この映画のウィキペディアを読んだらオチもバッチリ載っているのだけど、「庇っている」という解釈でいいらしい。
でも私は、この子は親を棄てようとしているんじゃないかと期待してしまった。
長男の持ち物から身元が割れてしまい、男は警察に連行される。長男は父親の姿を見ても黙秘を続ける。周りの大人たちはもう庇う必要はないのだと説得するし、男も観念している。
長男が涙を流してようやく発した言葉に、男は猛省し泣き崩れ許しを乞う。
40年以上前は「情」というものがあったのだろう。だから長男は庇っているという解釈でいいのだ。どのような状況でも父子の絆は絶たれないと誰もが信じられていた、子供の健気さに感動する、そんな時代。
私は2019年を生きている。この映画の夫婦は確かに「鬼畜」なんだけど、この夫婦は殺そうと思って殺しているだけ、まだマシなんじゃないか。夫の愛人の子を我が子のように育てられたら、それはまた別の物語が作れる。
今はその先に死があると想像できず、子供に暴力をふるい続ける親の事件が多すぎる。実の子連れ子問わず。この時代に松本清張もびっくりだろうね。
「この子は親を棄てようとしている」という視線で観ていたらなんとも愉快な気持ちになった。
「お前なんか親じゃない」。あの言葉にはそんな決意が込められていたのではないか。目の前で泣き崩れる父親に絶縁を言い渡し、自分はこのまま施設へ行ったほうが幸せだとわかっている。この子は人生を選んでいる。生きる力はあるのだ。一度落としかけた命。運の強い子だから、きっと幸せになっているに違いない。
最近は、こういった親を「毒親」と呼び、距離を置くかつては子供だった大人が増えているようだ。私はこの風潮に賛成する。毒になる親なら棄てていい。「子は親に尽くすもの」という価値観にとらわれて不幸でいる必要はない。自分が幸せならいいじゃないか。あと、距離を置いてみたら許せることもある。
全ての子供たちが幸せでありますように。
40年の歳月で、この国の家族観や風景が大きく変わったと教えてくれる、いろんな意味で面白い映画だった。
そうそう、簡単に実子を棄てていった愛人を演じたのは小川真由美。「ポイズン・ママ」と実の娘から呼ばれてしまった女優が演じていることもとても興味深い。
一番の「鬼畜」は誰でしょう。
(2019年1月23日鑑賞@神保町シアター)